ケアカレッジ「介護のココロのケア」担当、グリーフケアアドバイザーのマミコです。
罪悪感って本当に嫌な感情ですよね。
なんであんなことを言ってしまったんだろう。
なんであんなことしちゃったんだろう。
どうしてあの時、もう一度確認しなかったんだろう。
どうして素直になれなかったんだろう。
なぜあんな表情や態度を取ってしまったのだろう。
どうして…
なぜ…
もう一度あの時に戻れたら…。
その時には「悪意」をもっていなかったはずなのに、その後に「取り返しがつかない」と思うような展開や結果になると、私たちは『あの時』である過去に思いを馳せて、激しい後悔をします。
そして同時に、大きな罪の意識も持ちます。
罪悪感の苦しさと自分を罰する心
目を逸らしてその感情に蓋をしても、感情自体はなくなっていないので、ふとした時に痛みが再燃したり、同じような状況を繰り返してはその感情を引っ張り出して向き合うということもあります。
そして、罪悪感というのは文字通り「罪」「悪」というものがあるという上で感じる感情ですから、自分のことを「罰せられる存在」という目で見るようになります。
罰せられる・牢屋に入れておかなければいけない。
これは無意識に感じてしまうこともありますが、自分を罪深い存在だと感じていたら、当然ですが
私は許されてはいけない
だから、幸せになることはいけないこと
と、自分の幸せを禁止してしまいます。
「無実の罪」かもしれない、という視点
罪悪感ですが、実は「無実の罪」だった…なんてこともきっとたくさんあると思うんです。
自分では「やってしまった!」「傷つけてしまった!」「どうしてあんなことを…」と思うようなことでも、相手は実は何にも気にしていない(傷ついていない)ということや、その出来事がより良い方向にシフトするキッカケになっていたりすることもあり得ますよね?
でも、自分が「しまった!」「やってしまった!」「申し訳ない!」と感じていれば、勝手に罪悪感にまみれてしまい、自分を罰しようとしてしまいます。
お前は罪を犯した。
だから許されるべきではない。
という厳しい宣告は、他の誰かから与えられているものではなく、
自分が自分に対して行っているんですよね。
私たちは、本当に自分に対しては「人一倍に厳しい基準」を当てはめて、自分にはすごく非情なジャッジをしてしまいがちです。
周りの人に対しては「大丈夫よ、そんなこと気にしないでね」と言ってあげられるような小さなミスに対しても、自分に対しては「なんで毎回同じようなミスをするのよ?」「これで何回目??」などと、すごく厳しく追及してしまうこともあるあるではないでしょうか。
本当に、自分の中にいる裁判官の非情さといったら…。
もうちょっと温情ある、優しい裁判官に変わってもらわないと、自分自身が疲弊してしまいます。
罪悪感の裏にある「愛」
でもこの罪悪感は、裏を返してみると
「愛があるから」感じているもの
です。
どうでもいい対象や出来事、嫌いな存在や憎しみのある対象については、自分が何かしたこと(しなかった・助けなかったこと)で、後悔や自責なんて感じないものですから。
どうでもいい相手や対象に対して行った行動については、思い出すこともなければ記憶にも残っていないのではないでしょうか。
苦手だったり嫌いな存在には、むしろ「バチが当たったのよ」「いい気味だわ」という感情すら湧くかもしれません。
ということは、後悔で身をよじるようなことや、あの時になぜ…と自分を強く責める気持ちが湧いているということは
その人や出来事、そこにあるものに対して「大事だ」と感じているということ。
自分が何を大事にしていて、どんなことを大切に思っているのかを気付かせてくれる感情なのだ、と罪悪感にそっと触れてみてあげてください。
この苦しい感情は、私に大事なものを教えてくれているんだね。
ありがとう。受け取ったよ。
間違ってしまってごめんなさい。どうぞ許してください。
だからもう、この気持ちは手放します。
そんな風に、罪悪感に「ごめんなさい」を伝えて、罪悪感が教えてくれた「大切にしたいものや愛」を受け取り、感謝して手放して、自分を牢屋から解き放ってあげましょう。
心の奥がチクッとした分だけ、取り返しがつかないことをしたと後悔した分だけ、きっと私たちは
同じことはするまい
と慎重になれる力を身につけて成長できているはずです。
小さな傷に泣いている人に敏感になり、優しくする力も身につけているはずです。
罪悪感を感じた分だけ、きっときっと、私たちは優しさと思慮深さを身につけているはずですものね。
小さなちーちゃんとの約束
私が小学生だった頃、動物と暮らしたいという願いが叶い、ウサギを迎えることができました。
二つの手のひらの上に乗るくらいの、頼りなく柔らかく暖かい、小さな子ウサギ。
とにかくかわいくて、自分でもどうしていいか分からないくらいに愛おしい存在でした。
うさぎの名前は「ちーちゃん」。
嬉しくて学校で仲良くしている友達に「ちっちゃい赤ちゃんウサギが来たんだよ!」と興奮気味に伝え、ちーちゃんに会いに来てもらいました。
お友達も「かわいーーー」と優しく抱っこやなでなでしてくれて、それがすごく嬉しかったはずなのに、なぜかすごく照れ臭くて
「かわいいけどバカなんだよ!」
と言ったその日の夜、ちーちゃんは突然、短い生涯を終えました。
近くにあった動物病院のおじいちゃん先生からは「多分、生まれつきの病気を持っていたんだと思うよ」と言われましたが、冷たくなったちーちゃんの体を抱きながらワンワン泣きました。
我が家に来て1週間も経たずに旅立ったちーちゃん。
ちーちゃんを失ったことへの哀しみもありましたが、それよりも激しくつらかったのは
あんなに大好きで、あんなにかわいくて、とっても大事だったちーちゃんに対して『バカなんだよ』という言葉を言ってしまったこと
でした。
バカ、なんて言ったその日に逝ってしまうなんて。
バカなんて思っていなかったし、大切な私の宝物の様な存在だったのに。
もっともっと「かわいいね」「大好きだよ」って言ってあげたかったのに。
後悔してもしきれず、神様に何度も何度も祈り、ごめんなさいと謝り続けました。
でも、ごめんなさいと言っても、ちーちゃんには二度と会えなくて、あの言葉を取り消すことはできません。
許されるなんて到底思えず、しばらくはそんな自分のことを許せず、怖い夢にうなされる日々が続きました。
罪悪感から生まれた「誓い」
その後、虹の橋のたもとに向かってしまったちーちゃんに、私は一つの約束をしました。
私はこの先、大好きな小さな宝物に対して「本心ではない言葉は絶対に言わない」。
かわいいね。
大好きだよ。
愛してる。
私の宝物だよ。
という言葉を伝え続けるし、最後に伝えることになる言葉が、愛ある言葉であるように、と。
この「ちーちゃんとの誓い」は、その後に家族になってくれたモルモットやウサギ、犬や猫たちに接する際に守り続けています。
そのおかげで、言葉や態度で「存分に」愛を伝えることができるようになり、お別れの後で
なんでもっと愛を伝えなかったんだろう?
なんで思ってもいないような言葉を投げてしまったのだろう?
という身を焦がすような後悔をすることはなくなりました。
罪悪感がキッカケで、大切にしたい指針や、私が「こうしたい」を見つけることが出来て、愛していることを惜しみなく伝えることができるような私になれました。
激しい痛みと後悔があったから、自分が大事にしたいこと・自分が愛したいものを愛するための「私の指針」となるものが出来上がりました。
罪の意識があったから、守り続ける土台が強固になりました。
罪悪感からのギフトを受け取ろう
罪悪感は、人を縛り、監視し、幸せになることを妨害する感情ですから、感じ続けずに手放していく必要がありますが
罪悪感ほどに強烈で激しい感情から、教えてもらえること
も、また一つのギフトなのだろうと思うんです。
そこから学ぶことは、きっと角が丸く柔らかい成長につながるもので、後悔した分だけきっと『優しい成長』を遂げているはずだから。
後悔や痛みの分だけ、慎重になったり寛大になったり、それってきっと
あなたという人間の深みや魅力が増している
あなたという人間がより素敵に変化できた
ってことですものね。
罪悪感をゼロにはできなくても、感じた後でそこにある「罪悪感が教えようとしていること」「自分が大切にしたい指針」を見つけて、感謝して
あの時は未熟だったもんね。
本当にごめんなさい。どうぞ、許してください。
そして、大切にしたいことに気付かせてくれてありがとう。
これからは、大切にしたいものを大切に守れる私になれるよう、努力してみるね。
と、罪悪感をそーーっと小川に流すように、サヨナラって手放していけたらいいですね。
胸の奥にあるチクッとする罪悪感の痛みがあれば、そこにはきっと「愛」に基づいた大事なものがあるはずです。
それを見つけることが出来ますように。
愛があるから、痛いことを思い出せたら、ほんのちょっとだけ罪悪感との付き合い方も変わるかもしれませんね。