ケアカレッジ「介護のココロのケア」担当、グリーフケアアドバイザーのマミコです。
私たちは人生の中で、いろいろな選択を迫られる場面があります。
進学先、就職先や転職について。
結婚や離婚、自分にフィットした家を買うには?
投資ってどうだろう?
会社勤めではなく独立という道がある…
などなど、大きな選択肢を前にすると思いっきり迷いますよね。
だって、失敗したくないから。
だって、失敗したら取り返しがつかないんじゃないか?と怖れがあるから。
私たちはみーんな誰しも「後悔したくない」って思っていますし、後悔がどれだけしんどいかを知っているから、人生に大きな影響を与えそうな大きな選択肢を前にすると、
人生における正解はどれだろう??
とグルグルと迷い込んで、「正解」を必死になって探してしまいます。
毎日の中にも「選択」はいっぱいある
大きな選択肢を前にすると、正解を求める気持ちは強くなりますが、実は私たちの毎日は「選択の連続」だって知っていましたか??
例えば、朝起きて「トイレに行く」のが先か「歯を磨くのが先か」も、その時々で自分が選択をして選んでいます。
選んだ感じはないくらいスムーズに体の要求にしたがって行動していると思いますが、無意識のうちに「その時に必要な自分の行動を選択」して行っています。
– – – – – –
職場に来ていく洋服をクローゼットの中から「選ぶ」。
職場近くのコンビニで、飲み物やお菓子を「選ぶ」。
ランチはカレーがいいか、お蕎麦がいいか「選ぶ」。
頭や体を使って疲れた時に、小腹を満たす間食をするかどうかを「選ぶ」。
仕事でヘトヘトになったので、お風呂に浸かって疲れをほぐすか、シャワーで時短にするかを「選ぶ」。
– – – – – –
などなど。
いくつかパッと思い付いたものを挙げてみましたが、これ以外にもたくさん、日常に散らばっている様々なシーンで「その時々でベストだと思うもの」を判断して選択し、行動しています。
日常の中に散らばっている細かな選択肢は、たとえちょっと間違えても「大きな後悔」がないものが多いため、軽やかにポイッと自分の気持ちを優先させられますが、就職や転職といった「人生に影響する」大きな選択を前にすると、こんな風に軽やかには決められませんよね。
でも何かを選ぶときは、ランチに「カレー」か「お蕎麦」のどちらかを選ぶか、はたまた「ハンバーガーがいいかも?!」と別のものを選ぶ…というのと同じくらい軽やかに選んでもいいんですよね。
(って私もそんなに軽やかに選ぶ自信はありませんが…)
どっちを選ぶかは、自分がすでに知っている
私も以前、人生の大きな選択をする場面で葛藤して決めることができないことがありました。
ここで選択して「間違ったら取り返しがつかない」と、四六時中ずっと思考し続け、でも答えが出ない問題だったために身動きが取れずに疲弊していきました。
そんなとき、心理学の師匠に相談をしたら…
迷ってるならコインを投げて決めればいいよ。
裏が出たらやる、表がでたらやめる。
そんなもんでいいんだよ。
ちょっ…
私の人生の一大事なんですよ?!
と思ったのですが、でもほんと、正解を探して思考していると答えにたどり着けず、「これくらいじゃないと決められない」んですよね。
さらにこれには裏がある(言い方)のですが、私たちには『潜在意識』と『顕在意識』と呼ばれる「2つの意識」があります。
顕在意識と潜在意識は、よく「氷山」を使って例えられます。
氷山の上の部分は私たちが目にして「知覚」することができますが、実はその下に「見えていない」大きな氷山があり、見えている氷山を支えています。
潜在意識は無意識と表現されることもありますが、私たちが普段「心臓を動かそう」「歩く気には右足を1歩出して、次は左足を…」などと考えなくても自分を動かすことができるように、知覚できないけれどとても大きな仕事をしてくれています。
そして「力」の面で見ても、圧倒的に潜在意識の方が強い力を持っています。
私はよく「綱引き」を例に例えるのですが、3人 vs 97人 の綱引きを想像していただくと、どちらが勝つと思われますか?
圧倒的人数の差で、闘わずとも97人のチームが勝つのは予測できますよね。
私たちが自分で「知覚できていて思考するのに使っている」のは、3%。
そこで一生懸命に力を振り絞って考えても、もしも97%の力を持つ潜在意識が思っているものと違っていたら、どんなに思考しても、あっさり覆ってしまいます。
迷って占いに行って出してもらった答えも、コインの裏表も、実はこの「潜在意識」がそうさせているんです。
占い師に「そう言わせた」自分がいる。
コインに「こっちの結果を出させた」自分がいる。
実際に、大きな問題をコインで軽やかに決める…ということをできるかは別ですが、でもどんな結果も「自分が望んだとおり」なんだと知ると、選択をする際にほんの少しだけ肩の力が抜ける…といいですよね。
私はこれらの知識を知っていても、でも実際に「大きな問題」を前にすると、悶絶しますし葛藤しまくって、全然ダメなんですけれど。
私たちは、何を選んでも後悔するから
コインを使って…とは言われても、やっぱりすぐには選択できずに迷った私ですが、何かを選ぶのが怖かった裏側には『後悔したくない』という思いがあったから。
そんな時に、何かで読んだ本か、何かで見かけたインターネットの記事でこの言葉に出会い、ノートに書き留めていました。
出展がハッキリしないのですが、私の気持ちをほぐしてくれた言葉はこちら。
どっちを選んでも絶対後悔するから、安心して選んでいいよ!
どっちに行っても後悔するけど、どっちに行っても幸せになれるから。
ほんと、そうなんですよね。
何かを選ぶということは、何かを諦めるということ。
選ばなかった道は「いくらでも想像できるもので非現実」だから、選択した道がしんどかったり思い通りではないと、そちらに思いを馳せて後悔してしまうのが私たちですもんね。
でも、どちらを選んでも私たちは「今いる道」を歩いていくしかないし、その中で少しでも工夫したり幸せに向かっていくのだから、結局どっちを選んでも
通っていく過程が違うだけで、幸せというゴールを目指している
のは変わらないんですもんね。
そっか!
どっちを選んでも後悔するなら、じゃぁもう、気持ちがほんのちょっとだけでも強く傾いている方を選んでいいんだ、と肩の力が随分と抜けて、決断をすることが出来ました。
100%の正解はない世界。だから「自分の気持ち」をもっと大事にしてあげよう。
決断をする時に「100%の答え」を求めないこと、というのも心理学の師匠からアドバイスをもらいました。
私たちは学校教育で「正しい答え」を求めることを教えられました。
試験を受ければ「〇か×」がつけられ、たった1つの間違いがない答えがあるという思い込みを持ってしまっていますが、人生には「白黒」がハッキリつかない答えのない問題がいっぱいあります。
中国の古い書物に書かれていることわざに『人生万事塞翁が馬』というものがあります。
老人が飼っていた馬が逃げ出し、それは一見不幸なことに見えましたが、後に逃げ出した馬が立派な馬を連れて帰ってきました。
そしてその馬に乗った老人の息子が落馬して骨折。この事件は不幸に見えましたが、息子はこのケガがキッカケで戦争に行かずに命拾いをした、という話。
一見不幸に見える出来事も、後に続く出来事で「あの出来事があったから!」と良かったことに早変わりしちゃうことは、未来にいくらだってあり得るんですよね。
だから「過程」にいるときには分からない。
今時点では「こっちを選んだのは間違いだったのかも…」と思ってしまうことになっても、その後に「あの時こっちを選んだから幸せになれた」って言うことだってあるんですもんね。
それに、一見不幸に見えたことが幸福につながっているとはいえ、出来事が起きた時には「不幸」なんです。
痛みや悲しみ、後悔や自責の念が次々に湧きあがっちゃうのは、つらいときであれば当然のことです。
でもその不幸を経て、人生はどう変わっていくかは分からない。
答えは、その都度変化して行くもので、もしかすると自分の人生の最期の時になるまでは、きっと答えなんて分からないのかもしれないですものね。
100%こっちだ!という答えを見つけなくても、55%くらいこっちがいいかも…と思えたら、そっちを選んで進んでいい。
だって、人間はどっちを選んでも後悔するし、どっちを選んでも幸せになるから。
ならば、完璧で正しい答えを探すのではなく、この選択肢を前にして
私はどうしたいの?
私はどうなれたら幸せなの?
私の気持ちはどうなの?
というのを大事にしてあげたいし、世間一般の正しさと自分の気持ちがズレているのに「こっちが正解っぽいし…」と選んでも、しんどいだけですよね。
世間一般の正しさや正解は、あくまで「世間一般」というその他の人の基準です。
自分の人生を生きるのは、他の人ではなく、自分自身なんですから、フィットしない正しさに自分を抑え込もうとしても、ちっとも楽しくないし、幸せを感じられませんものね。
先日、『東南アジア式「まあいっか」で楽に生きる本』(野本響子さん著)という本を読みましたが、本の中でヴィンセント・チアン博士という、クアラルンプールのインターナショナルスクールの校長先生の言葉が紹介されいました。
マレーシアの学校では、数学などの明確な答えがあるもの以外に対して『正解は何?』ということを問わない教育を行っているそうです。
『正解は何?』ではなく『あなたはどう思う?』と聞くのだそう。
自分がどう思うのか、そして調べて見ることで「それぞれの視点で正しいと思うこと」が無数にあることを知り、人の意見と違う意見があっても、それを尊重し合えるようになるのだそうです。
いまだに多くの学校で、子どもたちは正しい答えを探して育ちます。正解はただひとつ。一般的な試験では、正解を書かないと点数がゼロです。(中略)こういう環境で育った人は常に『正しい』『正しくないか』で考え、『灰色』があることを学びません。
しかし人生のほとんどのものは白か黒かではなく、その中間のどこかです。何事にも正解があると学んだ子どもたちは、大きくなっても常に『正しい答え』を探しているので、何も言えなくなってしまうのです。正しい答えなどないのだから。
(引用:東南アジア式「まあいっか」で楽に生きる本/野本響子さん著)
本当に、人生には白黒・〇×で決められない問題や選択肢がたくさんあります。
そこに「人生万事塞翁が馬」も絡まったら、その時点での選択が覆ることだってありますから、やっぱりきっと
何を選んでも幸せになれる
のがきっと、私たちの人生。
だったら「世間の正しさ」「間違わないこと」に囚われてしまうよりも、自分の気持ちをもっともっと聞いてあげて、今の時点で自分が少しでも喜ぶものや、心地よいと思えるたり、自分らしい選択をしてあげられる方が、結果として後悔の少ない選択につながるのかもしれませんね。
間違った…と思うのは、誰だってイヤなことですが、分かりもしない先のことで「今」の自分が疲弊し過ぎてしんどくなり過ぎないように、少しだけでも肩の力を抜くヒントになりますように。