ケアカレッジ「介護のココロのケア」担当、グリーフケアアドバイザーのトサです。
突然ですが、私たちは生きている限り「欲求(ニーズ)」を持っています。
欲、というと思い浮かべるのが「三大欲求」という言葉。
・食欲
・睡眠欲
・性欲
というのは、広く浸透しているのでご存じの方が多いと思います。
この「三大●●」というものは、いろんなシーンで登場しますよね。
「世界三大料理」とか「世界三大がっかり名所」とか…
ちなみに
世界三大料理は「フランス料理・中国料理・トルコ料理」。
世界三大ガッカリ名所は「ブリュッセルのしょんべん小僧・コペンハーゲンの人魚姫の像・シンガポールのマーライオン」と言われています。
話が横に逸れましたが、先日「三大ニーズってなんだっけ?」という質問をされました。
皆さんは、三大ニーズって何だと思いますか?
三大ニーズとは
・愛して欲しい
・分かって欲しい
・助けて欲しい
そしてこれは、「愛してくれなかった」「分かってくれなかった」「助けてくれなかった」に変化して、自分は価値がない存在なんだ…と自分を攻撃する材料にもなりえるもの。
欲求 = 満たしてほしいもの
だから、それがもらえないことでイジケちゃうんです。
でもね、本当は与えてもらっているのかもしれません。
ニーズはあくまでも「自分の中にあるもの」なので、相手は十分に届けているつもりでも、自分が欲しい量がもらえていない・自分が思った形ではなかったりすると、
違うもん!!!
って思っちゃうんですよね。
ニーズって「してもらう」が前提です。
だから、自分で満たすのではなく、誰かから埋めてもらうことになります。
つまり、心理学的には「依存」の状態です。
私たちは誰しもが、生まれてすぐは「依存」の状態です。
自分では何もできないので、与えてもらわないと生きていけません。
だから、お腹が空いたり、おむつが汚れていたら気持ち悪い!交換してよ!と、「欲求」を分かってもらうために大きな声で一生懸命に泣きます。
でも、泣いても要求が通らないとどうでしょう?
諦めるしかないんです。
相手に求めているので、相手のさじ加減にすべてがかかっているのだから。
ニーズが満たされなければ、どんどんと不満が溜まっていきます。
不満だけではなく、頼るのをやめよう!自分でなんとかしなくちゃ!と自立をしていくのですが、
ニーズを受け入れてもらえなかった悲しみや痛み、傷があればある分だけ強い自立をしていきます。
そして、自立的な生き方をするようになると、ニーズを嫌い、自分の中のニーズを感じないように抑圧するようになります。
だって、ニーズを持ったら痛いから。
だって、ニーズがかなわないのが悲しいから。
しんどい思いをして自立した分だけ、もう二度と依存の状態になって苦しむのは嫌だ!!と感じます。
本当は「与えて欲しかった」という思いがいっぱいあるのに、それを押し殺して自立を強めていくのですから、その過程はとっても過酷で苦しいものです。
いっぱい心が傷付いたり、苦しくて、それを乗り越えながら自立したんですものね。
でも、冒頭でも書きましたが…
ニーズ(欲求)って、生きている限り、なくならないものなんです。
ニーズを抑圧するってしんどい作業です。
だって、三大ニーズって本当に素敵な欲求じゃないですか。
「愛して欲しい」という思いを抑えるのは、痛いですよね。
「分かって欲しい」という思いを飲み込むのは、苦しいですよね。
「助けて欲しい」という思いを我慢するのは、涙が出ちゃいますよね。
どんなになくそうと思ってもなくせないニーズが自分の内側にあるのですが、自立している状態では、もし与えてもらえなかったら…という傷や痛みの方が強くて、素直に「~してください」が言えません。
軽微なものであれば抑圧してもやり過ごせるかもしれません。
でも、自分の心の中で暴れ狂うほどのニーズがあったらどうでしょうか?
例えば、もうパンパンで入りきらないタンスの引き出しに、厚手のニットセーターをもう一枚押し込まないといけない状態を想像したら、ものすごい力を入れて抑え込まないといけないだろうな…と想像できますよね。
厚手のニットを抑え込むように、激しく暴れる感情を抑え込むのに必要な力って、何だと思われますか?
強く抑圧するためには「怒り」を使う
思い切り力を入れなくちゃ抑圧できないのですから、強い感情が必要になります。
そこで、怒りの感情を使って「えいっ」と必死になってニーズを押し込めようとします。
抑圧して禁止した物があると、それを表現する人を見るとカチンとしますし、怒りがわきます。
「何でも自分でやらなくてはいけない」と頑張ることを自分に課し、甘えたいというニーズを抑圧すれば、軽微な作業を「できない!助けて!」という人を見たときに
チッ!なに甘えてんだよ!!
それくらい、自分でやれよ!!
と心の中に怒りの感情がわきます。
自分は我慢している分だけ、ニーズを素直に表現できる人を見ると許せないんです。
だってね、本当は自分も「甘えたい」のに、歯を食いしばって我慢しているんだもん。
喉から手が出るほど欲しいのに、自分には与えてもらえないって思いこんで耐えているんだもん。
そして、怒っている時って攻撃的になります。
つい、声を荒げてしまったり、イライラしたり、試すような行動や態度をしてみたり、嫌みを言ってみたり…。
でも、それって「誰にでも彼にでも」見せているんじゃないんですよね。
自分の家族や恋人などには「イラッ」とする態度や暴言を吐くことがあっても、道を歩いている知らない人に暴言なんて吐かないですもんね。
でも、大切な存在、近しい存在に、なんで攻撃的な行動をしてしまうのでしょうか?
怒っている人は、困っている人
「攻撃は助けを求める声」という心理学の言葉がありますが、怒っている人は「自分ではどうにもできない」ことを分かって欲しくて怒っているんですよね。
助けてほしい、分かって欲しい、愛して欲しい、振り向いて欲しい…
相手に求めるものがあるのに、うまく伝えれれない、素直に言えないと「なんで分かってくれないの!」と攻撃的になってしまいます。
例えば、仕事で大きなミスをして泣きたいほど悔しい気持ちを抱えて家に帰ったとき。
妻がソファーに座って猫ちゃんを抱っこしながら推しの韓国ダンスグループのDVDを見ながら「おかえりー」と朗らな声がしたら??
・朗らかないつも通りの姿にホッとして癒される
・お前は気楽でいいご身分だよな。俺はこんなに仕事で大変なのにさ
どっちの気分になるでしょうか?
どっちに転んでもいい状態ですが、自分が悔しかった気持ちを「分かって欲しい」という気持ちを持っていて、それが素直に伝えられないときには、後者の「嫌味」を言って相手を攻撃してしまいます。
帰ると同時に旦那さんから嫌味を言われた妻は、どんな感じがするでしょうか?
一言も「しんどかった」「悔しかった」って言われていないので、旦那さんの「分かって欲しい」というニーズがくみ取れない状態で、いきなり攻撃されたら嫌な気持になっちゃいますよね。
せっかく推しからパワーをもらってご機嫌だったのに、楽しかった気持ちも一気にしぼんでしまいます。
でも、旦那さんの理不尽な怒りや攻撃の声は、
俺は悔しかったんだ!!
俺を分かってくれよ!!
という「助けを求める声」なんです。
いきなりそれを向けられても、相手は分からないことですけれど、ね。
誰でも彼でも攻撃できるわけではない
そして、旦那さんが抑圧していた感情を「攻撃」を使って分かってもらおうとする相手は、誰でもいい訳ではありません。
先にも書きましたが、道を歩いているだけの知らない人に「歩くのが遅いんだよ!」とか「楽しそうに笑ってんじゃねーよ!」なんて暴言を吐いたりできません。
そんなことしたら、大変なことになっちゃいますもんね。
実際、知らない人に攻撃を向けても、自分の「分かってよ」は受け止めてもらえず、何の解決にもならないから。
自分の思いをぶつけられるのは『自分の気持ちを分かってくれる人のみ』です。
だってあなたは私のことを分かってくれる存在でしょ?
あなたなら私を裏切らないよね?
そう分かる存在だから、責めるような言葉を繰り出してしまいます。
自分にとって大切で身近な存在、信頼しているから攻撃できるのですが、だからこそ「こんなこと言ったら相手に嫌われる」「こんな態度をしたら相手を傷付ける」と、ダメなことだって分かっているから
大きな罪悪感が生まれます。
責めた後で、ものすごーーーく嫌な気持ちになりますし、後悔するし、申し訳なくて自分のことを情けなく感じます。
罪悪感は「自分を罰するつらい感情」ですが、それを感じると分かっていても、攻撃してしまうくらいに
行き場のない思いを抱えて、しんどくて苦しいんです。
それくらい自分が痛くてつらい状態なんです。
罪悪感を感じるし、こんな自分が嫌になっちゃうけれど、それでも嫌味を言ってしまうのは、心のどこかで
この人は私のことを受け止めてくれる人だ、って知っているから。
自分のことを「愛してくれている」って分かっているから。
言い換えると、目の前の大切な人は、自分のことを「愛している」というのを、しっかり受け取れているんです。
愛を信頼できている、ちゃんとその手のひらに持っているんです。
そしてさらに、こんなみっともない攻撃をする姿を見せられるのも、自分が目の前の人を「愛している」から。
誰にでも見せられる姿じゃありませんもんね。
愛してくれる・愛したい人だからこそ、ニーズが溢れてしまうんです。
愛する人だからこそ
・愛して欲しい
・分かって欲しい
・助けて欲しい
というニーズをぶつけられるんです。
罪悪感は、どうでもいい対象にはわきません。
どうでもいいと思う人に嫌われても何とも思わないけれど、自分が愛する人を傷付けて嫌われたとしたら、激しく後悔しますし強い罪の意識に襲われます。
だから、ね、嫌みを言っちゃったり、攻撃的な態度をする時の心のずーーーっと深い所にあるものは
愛されているし、愛している
という思いなんです。
心って何層にもなっています。
表面だけ見ていると「怒り」のように見えるものであっても、その下には「押さえている欲求」が隠れていたり、さらにその下には「傷ついた自分」が隠れていたり、その下には「愛してくれる信頼感」があったり…と、いろんなものがミルフィーユのように重なっています。
目の前で攻撃的な「怒っている人」は、本当は分かって欲しいと心の奥では訴えているのかもしれないな。
そんな風にちょっとだけ思えたら、もしかしたら少しだけその人を違った目で見ることができるかもしれませんね。
そして自分自身が、ついトゲトゲして嫌味や攻撃的な態度を取ってしまったら、自分は愛する人に甘えていたんだ…と、自分のニーズを許して、素直にごめんねが言えたらいいですよね。
罪悪感をほどいて、愛する人とは仲良く素敵な関係をはぐくんでいきたいですものね。