ケアカレッジ「介護のココロのケア」担当、グリーフケアアドバイザーのマミコです。
突然ですが、みなさんは「今日の自分」を評価して成績表をつけるとしたら、どんな基準で評価するでしょうか?
うまくやれたこともあれば、もう少し上手にできたかもな…と思う箇所もあるでしょう。
いやいや、もうなにもかもダメ!と厳しい採点をする人もいるかもしれません。
この「評価の基準」は人それぞれで、ある人にとっては70点の出来だと思えることでも、自分からみたら30点しかあげられないということがあります。
自分に対して厳しくしがちな人ほど、当然ですが自己評価は低くなってしまい、なにかと頑張りすぎてしまっているはずです。
完璧主義だった私の話
かくいう私も、以前は「脳内に鬼軍曹を常駐」させていたので、自分に対してはことごとく「ダメ出し」ばかりをしていて、頑張っても頑張っても、何一つ認めてあげられずに疲弊していきました。
自分を評価できない理由の一つは【完璧主義】だったから。
完璧にできなければ、愛されない。
完璧でなければ、価値がない。
完璧でなければ、迷惑をかけてしまう。
そんな思いが常に自分を支配していて、やることなすこと「欠点」「あら」ばかりが目に付いてしまい、頑張っていることには見向きすらしてあげていませんでした。
頑張っても頑張っても、褒めてもらえるどころかけなされる。
一生懸命なのに、まだ足りないと言われる。
これじゃぁ、疲弊していくばかりでしんどいですよね。
でも、私は自分に対して、ずっとこんな風に接してきました。
何十年もの間、ずっとずっと、自分を傷つけることをしてきました。
しかも、自分というのはいつだって側にいて、すべてを見て知っている存在です。
24時間、365日一緒にいて、すぐに「ほーら、やっぱりダメだね!」と監視の目を光らせて、自分の揚げ足を取るように批判ばかりされていたら、どんどん自分が委縮していってしまいます。
ことあるごとに自分のあら探しをしていたので、自分を大嫌いになってしまった私。
当然ですが、自己肯定感は全く持ち合わせていませんでした。
自分をどこまでも嫌い・虐めて・自信が持てなくなって、もう本当にボロボロでヘトヘトの状態。
自分を嫌う要因は色々ありましたが、その一つが【完璧主義】でした。
今でこそ、ずいぶんと「できない自分」を受け入れることが出来るようになりましたが、未だに一人反省会(という名の自分いじめ)をしてしまい、ハッとすることがあります。
完璧主義が全て悪いわけではありません。
よりよくしたい、より精度を上げたいという原動力になる、とっても素敵な面だって持っています。
でも、これが「過ぎる」と途端に自分を生きづらくさせます。
なんでもそうですが「過ぎる」のではなく、「ほどほど」が大事なんですよね。
完璧って一体なんだろう?
以前、別の記事でも「完璧主義」について触れていますが、その中で紹介した「完璧主義チェックリスト」を再掲させていただきます。
あなたはいくつ当てはまる?完璧主義チェック
□何事も1番ではないと駄目な気がする
□人生も仕事も「頑張らないといけない」と思っている
□基本的に物事に対しては「~すべきだ」と考えている
□「ちゃんとしなきゃ」が口癖である
□妥協が出来ず残業したりオーバーワークになりがちである
□目標を達成できなかったら苦労が水の泡だと思う
□怠け癖のある人を見るとイライラする
□心配性である
□自分に対する自信はあまり持てない
□ミスをするとかなり落ち込む
□部屋がきちんと掃除・片付いていないと怒りが湧く
□「0か100」「白か黒」をはっきりさせないと気がすまない
□人から何か指摘されるのは嫌い
いくつ当てはまったでしょうか?
完璧主義の傾向が強い人ほど、このリストのチェック数が多くなります。
リストにもありますが、「ちゃんとしなきゃ」「~すべき」という思いが強いため、何かをやならくてはいけないときや挑戦する際に、はじめからハードルを高く設定してしまいがちです。
目の前のハードルが高過ぎるゆえに、挑戦する前に「無理だ。完璧に(うまく)やれるはずがない。じゃ、やめよう」と行動自体をやめてしまうこともあるあるです。
完璧にできないくらいなら、最初からやらない
という思考が働き、一歩を踏み出すことや、やりたいことがあっても挑戦することができなくなります。
また、取り組んでしまったら最後…で、完璧な状態を求めますから「グレーな状態」「モヤッとしている状態」が許せません。
「0か100か」という極端な基準なので、すぐに「白黒」をはっきりさせようとします。
でもね、何でもかんでも「白黒」つけられるものばっかりじゃないですよね。
社会生活を送っていると、自分以外の誰かの行動や環境にも左右されて、思うような結果にならないことだってあります。
一見「ダメ」「失敗だ」と思うような結果があった後で、それがきっかけとなっていい結果につながる未来だってあるかもしれないのに、ねぇ。
そもそも「完璧」ってなんでしょう??
「完璧じゃなければだめだ」と自分のできていない部分を厳しく採点しますが、そもそも「どうすることが完璧だ」という明確な基準はあるのでしょうか?
例えば、富士山に登るという目標があったとして、「完璧」なゴールはどんなものだと思うでしょうか?
山登りのゴールと言えば、山頂にたどり着くこと。
でも、完璧主義の人は山頂にたどり着いても「途中で長い休憩を入れた私は、完璧にできていない」「4つあるルートのすべてを制覇したわけではないからゴールしたとはいえない」などなど、
完璧だということを認めたらいけないぞ!
と言わんばかりに、完璧にできていない理由を探してきて自分をいじめます。
ちゃんと山頂に着けたとしたら、もう「目標達成」でおめでとう!なはずです。
富士山に登るという目標を完璧に成し遂げているはずなのに、ゴールしても完璧じゃない、だとぉ…???
後出しじゃんけんのように、完璧にたどり着いた途端に謎の「ハードル」が出現するので、完璧になんてたどり着けません。
4つの登山コースを全て制覇して山頂にたどり着いたとしても、装備に改善点があるはず…、時間がかかりすぎている…、などもはや「難癖」としかいいようのない完璧を要求してしまう。
もうこの時点で、「完璧」ってなに?の状態です。
「完璧」のゲシュタルト崩壊です。
こうやって一歩外から状況を見てみると、いかに理不尽なことで自分を否定しているんだろうと気付けますが、完璧主義でガチガチになっているときには、後出しの難癖やゲシュタルト崩壊している状態だなんて微塵も感じていません。
こうなったら完璧だ、という確たるゴールがないのに完璧を目指すって
ハッキリ言って無理過ぎますよね。
ゴールについた途端「もっと先をゴールにします」と言われるレースをしているようなもので、それってゴールすることが出来ませんよね。
完璧主義な状態で自分を追い込むって、こんなにしんどいんです。
そもそも私たちは「不完全」な存在
相田みつをさんの有名な言葉があります。
つまずいたっていいじゃないか
にんげんだもの
ほんと、人間だからこそ「完璧」「完全」になんてやれずにつまづくんですよね。
私たちはそもそも生まれつき、不完全な存在です。
この世界に「完璧・完全」な存在はいません。
あの、神の子と呼ばれたイエスですら、不完全な存在だったんですものね。
みんなそれぞれに「秀でている面」「あまり得意ではない面」を持っていて、デコボコといびつでありながら、それが個性や魅力となって「その人らしさ」を生み出しています。
自分の中で飛び出した長所が、それを不得手としている人を補い助けて、ありがとうと言われる。
自分の中で凹んだ欠点部分があれば、それが得意な人に助けてもらい、ありがとうを伝えられる。
全員が不完全で欠けているところがあるから、他者を必要としますし、不完全さを補い合うことで「喜ばせたい」「感謝したい」というあたたかいつながりが生まれます。
子どもの頃、母がキリスト教を信仰していたので聖書の言葉を学んでいました。
聖書の言葉によると、神様は人間を地上に登場させたのちに「よし」と祝福しています。
神様は、生まれながらにして不完全さを持っている状態の人間を「よし」として想像されました。
しかも、天地を創造された仕上げともいえる、一番最後に人間を創造した後にこう述べられています。
神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。
(引用:創世記1章31節)
なんて素敵な言葉でしょう。
「よし」と祝福されただけではなく、不完全である私たちをご覧になり、神様は『極めて良かった』と言われているんです。
完璧ではない、いびつな個性を持つ人間は、不完全さがあるままで「極めて良い」んです。
人間を作り出した神様が「不完全な状態でよい」と言われているということは
この地球にいる人間は、不完全である状態ですでに「完全・完璧」だということ!!
ん?
なんかややこしい表現ですよね。
ザックリいうと、『不完全で完璧にできない私たちでいい』ということ。
完璧にできなくても、上出来で祝福されている、ということ。
不完全でいいんです。
完璧じゃなくていいんです。
そもそも最初から「不完全でよし」をされて作られているのですから。
不完全に込められた思い
とはいえ、やっぱり100点満点を目指したいし、できるなら完璧がいい!と思っちゃうものですよね。
でもね、きっと完璧な存在であるはずの神様が「不完全な状態を極めて良い」と言われたというのはきっと
『不完全を楽しんで生きるように』という思いが込められているのかもしれません。
助けを求めたり、助けになったり、そういう「足りないを補い合う」ことを、もっともっとヨシとして生きていくことを望まれているのかもしれませんよね。
完璧主義に陥ると、完璧という「到達できない領域」を目標にするので、絶対できっこない自分を虐めるための大義名分を得ることができます。
自分を否定し、攻撃し、傷つけるための「正当な武器」を手にしている状態なので、否応なしに自分を鞭打ちます。
不完全ながらも最良を目指し、心も体もボロボロになって傷だらけで、もう頑張ることもできない状態でも「ここが足りていないでしょ!こっちだってダメだ」と、泣いている自分に優しい毛布を掛けることもせず、鬼の形相で鞭を振り上げ、あら捜しを続けちゃうんです。
こんなの、かわいそうですよね。自分が。
だからこそ、思い出してほしいんです。
私たちは「完璧」ではなく、「不完全な存在」であることを。
不完全ゆえに、完全・完璧にはなれないことを。
一生懸命に健気に、到達できない「完璧」を目指しているのが、不完全な自分だということを。
完璧主義をやめるための落とし穴に気を付けてね
私自身、完璧主義で生きづらさを抱えていましたが、おそるおそる、少しずつ「完璧にできない自分」を許して受け入れる練習をして、今に至ります。
幾分かはダメな自分を笑ってあげられるようにはなったものの、未だに自分がうまくやれないことを恥ずかしいと感じたり、現状で満足するな!上を目指すのが当然でしょ!という「鬼軍曹」が顔を出してくることがあります。
完璧主義を緩めてきたとはいえ、なくなったわけではないんです。
私自身も陥った罠なのですが、完璧主義の人が完璧主義を緩めようとするときに
完璧主義を【完璧に】やめようとする
ということをしようとしてしまいます。
完璧主義な気持ちが湧き上がることを、いけないこと!と許せずに、完璧主義が手放しきれない自分を許せずに攻撃してしまう。
これじゃぁ、がんじがらめですよね。
完璧主義ゆえに「どうしても完璧を目指したがる」のですから、いい塩梅にゆるめるというのが、実は一番難しいことかもしれません。
ならば、そこで少しだけ発想の転換!
自分に備わっている「ハードモードだからこそ燃える」という資質を活かして
ハードな難題だからこそ燃えるんだから!
いい塩梅にゆるむ…という超難関に挑むんだ!!
という風に、「適度な状態」という超難関に敢えて挑戦すると決めて取り組むのはいかがでしょうか?
完璧に「6割の出来でOK」が言える自分を目指す
という目標設定を立てませんか??
私はこの考え方を使って、不完全さに完全に近づくぞ!と、訳の分からない理論を立ち上げて完璧主義を緩ませていきました。
先にも書きましたが、私は完璧主義を「100%完全に」手放せてはいません。
なにしろ不完全ですし、不完全ながらも人間には「よりよくなりたい」という気持ちが備わっているので、完璧に近づこうとするのはなくすことができないものですし、ね。
でも、完璧主義がゆるんだことで、油断するとすぐに「完璧主義」が発動してしまい、自分を追い詰めようとする気質がある自分を許してあげられるようになりました。
ほらほら、またやってるよー。しょうがないなぁ、って。
そうしたら不思議なほど、ゆるーく楽に生きられるようになりました。
今の私は、自己採点で55点~60点くらいの状態で「よくやった!」と言えるようになりました。
完璧主義な人からしたら鳥肌が立っちゃうような、中途半端な状態で生きています。
出来ていないこともいっぱいあるし、足りていない部分もたくさんある。
人から助けてもらわないとどうしようもないことだってあるけれど、ゆるめるようになって世界はこんなにも生きやすいのか!とビックリしています。
60点は合格ライン。だからそこそこを目指しませんか?
完璧主義うんぬんを除いても、私たちは子どもの時から「100点を目指す」「100点はすばらしい」という世界で育ってきています。
だから、減点されるというのはイケナイことだと思い込んでしまっています。
100点が基準だもん!
となっているからこそ、敢えてここで「60点を目指す」ことをご提案。
モヤモヤしちゃうような、中途半端な点数ですが、60点には根拠があるんです。
調べたところ、
いろいろな資格試験や大学では、『6~8割』が合格のためのボーダーラインなんです。
旺文社 教育情報センターの「入試動向分析」のホームページによると
合格ラインは
・最難関の医学系で得点率80%以上
・その他の学部系統で60~70%台
ねっ!!
60点でもいいかも…って思えるでしょ??
入試や資格検定は、「合否を判定する現場」ですが、そこでも別に100%は求められていません。
完璧でなければアウトと言われていないんです。
さらに、資格取得も入試も、それぞれに『合格最低点』というものを発表しています。
合格を目指すために「基準があるので、スレスレでも大丈夫ですよ~」と言ってくれていることからも分かるように
80点で合格しようが
60点で合格しようが
基準点を超えれば、合格なんです!!!
そして、60点という合格スレスレで合格できたら「やったー!」と喜べるはずなのに、80点という高得点で合格しても「100点じゃなかったんだ…」と合格したことを喜べないでいたら、高得点を出せるほどに頑張り屋さんにもかかわらず、幸せや喜びを取りこぼしてしまっていて、すごく残念ですよね。
60点で「やったー!」って喜んでいいんです。
半分よりちょっとできたくらいで「OK」と自分をヨシヨシできるようになると、本当に生きやすくなります。
完璧主義ゆえに、中途半端な状態はモヤモヤするはずですから、モヤモヤしたら立ち止まって思い出してみてください。
●そもそも私たちは不完全だった!
●グレーな状態には慣れていないからモヤるのは当然!
●医学部ですら80点でいい!
●60点な自分を完璧に受け入れなくていい!
完璧に完璧主義をゆるめるぞ!と意気込まなくていいと、肩の力を抜きながら、ゆっくりゆっくり、まずは1点ずつ原点を受け入れていくように、できない自分に目をつむってあげられますように。
受け入れるのにはきっと「ギャー―!これでいいのーーー?!」と、グレーな状態に悶絶する日もあると思いますが、グレーで大丈夫ですから。
これまでの主義を手放して変えていくのですから、抵抗も大きく時間だってかかるのは当然です。
手放すのだってかなり手ごわいけれど、手ごわいほど燃えるんだから大丈夫!と、頑張り屋さんであるあなただからきっと「完璧主義をゆるめられる」と信じて、ゆっくりゆっくり、自分を解いていけたらいいですね。