感謝するケアが生み出す心の豊かさ
介護や医療の現場で働く私たちにとって、「感謝」はしばしば“いただくもの”と捉えられがちです。「ありがとう」と言われると嬉しくなり、「自分の関わりが役に立ったんだ」と実感できますよね。確かに、感謝の言葉は職員にとって大きな励みとなるものでしょう。
一方で、私はケアする側が感謝することの大切さをお伝えしています。私たち自身が、日々のケアの中で「ありがとう」と利用者様に感謝の言葉をかけること。それが実は、ケアの質を高め、職員自身の心を豊かにし、職場全体に良い影響を与える力を秘めています。
こういった「感謝する心をもってケアすること」こそが、利用者様の人生をより豊かにし、支援する側にとっても心の潤いを生みだすこととなるでしょう。そして、その積み重ねが、組織やチームに新しい“寄り添い”の文化を育てるイノベーションへとつながっていきます。
感謝が人を変えるメカニズム
心理学の研究では、「感謝されると感謝したくなる」という“好意の返報性”が広く知られています。私たちは誰かに優しくされたり思いを向けられたりすると、その人に対して何かを返したくなる性質を持っています。これは人間関係を円滑にするための基本的な心の仕組みです。
また、感謝されると「自分が役に立った」「受け入れられた」と感じ、自尊心が高まります。この自尊感情の高まりは、自己肯定感や前向きな感情につながり、他者への思いやりや共感力も高めてくれます。
さらに近年では、感謝されることによって“物質的な満足”よりも“内面的な充実”を重視する価値観が育つことも報告されています。つまり、感謝を通して「人と人とのつながりの尊さ」に気づき、精神的な豊かさを実感するようになるのです。
職員が日常のケアの中で利用者様に感謝の言葉をかける。——その一言が、感謝の連鎖を生み出し、やがて職場全体を温かな雰囲気で包み込むようになります。そしてその温もりは、利用者様にも伝わり、ケアの中に安心感と信頼感をもたらしてくれるのです。
「ありがとう」は老年期を輝かせる
心理学者エリクソンが示した発達理論によれば、老年期における最大の心理的課題は「人生の統合」、すなわち「自分の人生を肯定的に受け止められるかどうか」と言えます。「私はよく生きてきた」「ありがたい人生だった」——そう感じることができるかが、老後の幸福感に大きく影響すると考えられます。
しかし現実には、老いとともにできないことが増えたり、社会との関わりが減って孤独感を抱いたりする中で、人生を肯定するのは簡単なことではありません。特に施設での生活では、家族とのつながりも減り、より喪失感を感じやすくなるでしょう。そのようなときに、私たち支援する側から感謝を伝える関りをしたらどのような効果が生まれるでしょう。
たとえば、笑顔で話しかけてくださった利用者様に「その笑顔に、こちらが元気をもらっています」と伝える。何気ない言葉に「いつもありがとうございます」とお礼を添える。こうした感謝の声かけは、利用者様の“役割感”や“存在意義”を育み、「自分には価値がある」と実感させてくれます。
これはまさに、人生の統合を後押しするケアだと考えられます。そして、その先にある「老年的超越」——老化を否定せず受け入れ、多幸感をもって生きる心理状態へと導く可能性も秘めているのではないでしょうか。
感謝が創る、ウェルビーイングな職場
福祉や医療の現場は、高い専門性と同時に、強い感情労働が求められる場でもあります。目の前の人に丁寧に寄り添うという仕事の性質上、ストレスや精神的な疲労を抱えやすいのも事実です。厚生労働省の調査でも、福祉・介護分野は精神障害による労災の多い業種の一つとされています。
だからこそ、日々の現場に「感謝の文化」があることは、職員の心の安心、幸福感につながります。感謝の言葉を素直に交わせる職場では、職員同士の関係も良好になり、協力関係や新しいコラボレーションが生まれやすくなります。実際に、サンクスカードや感謝を伝える仕組みがある施設では、職場の雰囲気が明るくなったという声も多く聞かれます。
また、サンクスカードのように感謝を「書いて伝える」行為は、マインドフルネス(今ここへの集中)にも通じます。心を静め、目の前の出来事に意識を向け、自分の感情を整理する——このプロセスがバーンアウトやメンタル不調の予防にもつながります。つまり感謝は、ケアの質を高めるだけでなく、「働く喜び」「つながる喜び」を感じられる“ウェルビーイングな職場”を築く土台にもなり得るでしょう。
心に届く「ありがとう」が生む変化
ある研究で、職場でやり取りされていた2500枚のサンクスカードを分析しました。その結果、特徴的だったことは、次第に“職員から利用者様へ向けた感謝”の言葉が増えていったことです。
たとえば、「笑顔で話しかけてくださって、私も元気になりました」「『がんばってね』と声をかけてくださって、前向きな気持ちになれました」・・・。これらは、単に声をかけてもらったことへの感謝ではなく、「感情的な恩恵」に対する感謝です。つまり、人として人に寄り添う中で生まれる心の交流への感謝と言えます。
物質的な豊かさを超えた心の豊かさ…。「ありがとう」という感謝の言葉が、利用者様と職員の関係をより深いものへと導いてくれます。そしてそれは、“支える”と“支えられる”という一方向の関係を超え、“共に在る”という新たな関係性をつくっているのです。
私たちからはじめる「寄り添いのイノベーション」
感謝の気持ちは、自分だけにとどまりません。ハーバード大学の研究では、ある人の幸福感が、その友人や家族、そのまた友人にまで波及することが明らかになっています。
つまり、一人の人が発した「ありがとう」が、数人先の誰かを幸せにする可能性ももっています。その波紋はやがて、チーム、職場、地域社会へと広がり、見えないけれど確かに“世界”を少しずつ変えていくのかもしれません。
利用者様に寄り添うとは、支援することだけではありません。共に笑い、共に涙し、共に感謝しあえること。そこにこそ、私たちが目指すべきケアの本質があるのだと思います。
いま、私たちに必要なのは、私たちの心の小さなイノベーション、「ありがとう」を大切にする文化です。感謝する心をもって寄り添うこと、福祉から始まる“寄り添いのイノベーション”、それが誰もが自分らしく生きられる未来へとつながっていくと、私は信じています。