ケアカレッジ「介護のココロのケア」担当、グリーフケアアドバイザーのマミコです。
私たちは誰しもが「好かれたい」「大切にされたい」「愛されたい」という欲求を基本的に備えています。
基本的に備わっている感覚とはいえ、それが過ぎてしまうと「嫌われることへの怖れ」になってしまい、自分の生活を縛るものに変わってしまい、社会生活を送る上でしんどくなってしまいます。
マズローの5段階欲求説
アメリカの心理学者、アブラハム・マズローが考案した「マズローの5段階欲求説」というのをご存じの方も多いと思います。
人間の欲求を5段階に分け、「生理的欲求」「安全の欲求」「社会的欲求」「承認欲求」「自己実現欲求」が下から順にピラミッド型にして表されています。
この5つの欲求には序列があり、下にある欲求が満たされることでようやく一つ上の欲求を持つようになると言われています。
第1:生理的欲求
最も基本となる欲求が「生理的欲求」です。
これは、生きていくための本能的欲求で、睡眠・食事・排泄・呼吸…といった生命維持に必要な欲求で、人間は何はともあれこの欲求を満たすことができないと、より上の欲求にたどり着けません。
例えば、何日も徹夜をしてフラフラになっている時には、ステップアップして資格を取りたい!!という欲求は持てませんよね?
頭の中は「寝たい…早く寝たい」でいっぱいになっていると思います。
しっかり睡眠を確保して「生理的欲求」が満たされてから初めて、資格を取りたいな~と考えることができます。
第2:安全の欲求
心身共に健康で安全な環境で、経済的にも安定して安心して暮らしたいと願う欲求。
紛争などによる身の安全の確保や、経済的な安心の確保、病気で体調がすぐれない状態からの回復など、自分の心身の危機を回避し、快適に生活したいと思うのが2段階目の「安全の欲求」と言われています。
第3:社会的欲求
社会的欲求は「所属と愛の欲求」とも呼ばれており、社会とのつながりを求め、集団に所属したり仲間を求めたいと願う欲求です。
生命維持や暮らしの安全が満たされていても、誰とも繋がれていない一人ぼっちの状態では寂しさを感じますよね。
「どこにも所属していない」という寂しさや孤立感を解消し、他者と繋がり、愛し愛される関係を構築したいという思いが私たちには備わっています。
物質的な欲求だけでは私たちは満たされず、自分を受け入れてくれる「他者」を必要とする、というのがこの欲求から分かります。
第4:承認欲求
社会や集団の中で「高い評価」を得たい、能力や個性を認められたい、尊重されたいという欲求。
会社の中では実績を評価されたい!と願いますし、最近ではSNSで「いいね!」が欲しい「たくさんの人に見てもらいたい」と思うのも承認欲求に該当します。
さらに、承認欲求は「低位の承認欲求」「高位の承認欲求」という2つの分類で別れています。
●低位の承認欲求
誰かに褒められたい!という欲求。注目されたい、賞賛されたい、SNSで「いいね!」が欲しいと思うのがこちら。
●高位の承認欲求
自分が自分を承認し、喜びや達成感を感じられるかどうか。
他人軸での評価を求めるのではなく、自分が決めた目標や基準を満たしたいと思うのがこちら。
第5:自己実現欲求
ピラミッドのより下にある1~4の欲求を全て満たされた後に、自分の可能性や使命を達成したい、自己をより表現して自分らしく生きたいという欲求が生まれます。
「作家になりたい」「起業したい」「海外移住したい」など、自分がこうなりたい!という夢や理想を持てば、そこに少しでも近付きたいなぁ~と思いますよね。
周りからの承認や評価(第4の承認欲求)だけでは私たちは満たされず、理想の自分・夢や目標といった個人的な理想に近付き、自己実現したいという願いを満たしたくなります。
そしてこの5番目の「自己実現の欲求」が満たされると、さらに高次元の欲求である『自己超越の欲求』が生まれるのだそう。
自己超越の欲求とは、社会をより平和で安全にしたい、貧困をなくしたい…などなど、自分という範囲を超えたレベルでの理想を実現したい「他社貢献」の欲求なのだそうです。
誰しもが「愛されたい」「好かれたい」という社会的欲求を持っている
マズローの5段階説を先にご紹介しましたが、生命維持や安全に暮らすといった「基本的な欲求」が満たされると、私たちは誰しもが、他者とのつながりを求めて「愛されている」ことを実感し、他者との良い関係を築きたいという欲求を持ちます。
もうこれは、人間に備わっている「欲求」なんです!!
そして私たちは、社会生活を送っているので「一人で孤独に生きる」ことを選べず、どうしたって学校や会社、家族といった社会(他社)と関わって生きなくてはいけません。
会社や学校で嫌われてしまうと、大勢の中でポツンと自分だけが孤立しいたたまれない気持ちになりますよね。
誰だってそんな悲しみを味わいたいなんて思いません。
だから当然、嫌われたくないし、よく思われたいと相手の顔色や反応が気になるものです。
嫌われたくない!という気持ちを持つこと自体を、決して責める必要はありません。
そう思っちゃう自分がいるのは「当然だよ」と、どうか自分に笑いかけてあげてくださいね!
好かれたい気持ちが「過ぎる」ことが、自分を疲弊させる
誰しもが「嫌われたくない」という気持ちを持っていますが、でも残念なことに、この世界には色んな人が存在していて
自分とは合わない環境、自分とは合わない人
というものも存在しています。
学校や会社といった「簡単には所属を変えられない環境」の中で、自分とは合わない人がいただけで、決して自分がダメでも何でもないのに『嫌われる』という経験をしたり、嫌われている人を見て辛い感情を持った人は
「嫌われることを過剰に怖れる」ようになってしまいます。
あんな思いはしたくない、あんな悲しみは味わいたくない、って。
そこで私たちは「好かれる存在」になるために、周りの人の顔色を伺い、人の意見に合わせようとし、どんどんと『自分の気持ち・自分の意見』を置き去りにしてしまいます。
自分を生きられなくなっていくんですよね。
常に正解を求め、アンテナを張り巡らせているので、思考がフル回転で疲弊していきます。
例えば、みんなでお昼ご飯を食べよう!という話が出た際に、嫌われることを過度に怖れてしまっていると、自分の食べたいものを言えなくなります。
みんなと一緒、みんなが食べたいものと同じじゃなかったら嫌われるんじゃないか?変な人って思われて浮くんじゃないか?
そうすると、みんなは何て言うんだろう?とその場にいるメンバーを見てあれこれ考え、自分の気持ちよりも無難な答えを口にしたり、「みんなと一緒でいいよ」「何でもいいよ」と言ってしまうことになります。
あくまでも「食べたいものをリストアップしているだけ」で、パスタもいいし、ラーメンもいいし、お寿司やカレーもいいよね!という、食べたいものの中からみんなで決めるための『候補出し』すらできなくなっちゃうんです。
自分の食べたいものを伝えても、それにならないことだってありますが、それでもやっぱり「伝えたうえで違うものになった」のと、「伝えることすらせずに人に合わせるだけ」では、自分の気持ちは満たされ度が違ってきます。
いつだって人を優先し、自分の気持ちは無視して我慢させているのですもの、心の中の「自分の思い」は外に出れずに『我慢の壺』に押し込まれていくばかり。
最初のうちは、ガマンして押さえつけている自覚がありますが、ガマンってしんどいんです。
一生懸命「辛いよ!苦しいよ!」と自分の内側が訴え続けていても、それを感じることが苦しくなるので、いつしかその自分の声を感じるスイッチを切ってしまいます。
自分の大事な感情を「感じないように」と閉じてしまうんです。
喜怒哀楽、ポジティブにネガティブ、私たちの感情には「楽しいもの」「あんまり感じたくないもの」も混じって存在しています。
楽しい・心地よい・前向きになれる感情以外は感じないように出来ればいいのですが、感情というのは「全部がセット」でつながっているため、感じたくない感情をOFFにしようとすると、楽しい・嬉しいといった「快の感情」も一緒に感じられなくなっていきます。
だんだんと自分が、能面のようになっていっちゃうんです。
人に嫌われないようにと「他人軸」になって生きることをしているうちに、自分の気持ちが分からなくなって、楽しいこともしんどいことも麻痺していき、ある時押さえていた「感情の壺」に入りきらなくなった思いが溢れて、自分を生きていないことに気付いて途方に暮れてしまいます。
何者かになって愛されても、それは自分ではないから満たされない
恋愛本などでは「愛されテクニック」「こうすればモテる」というものがたくさん紹介されていますよね。
意中の人がいて、自分らしさを封印し「モテテク」を駆使して別人のように自分を演じ、それで相手があなたのことを好きになってくれたとしたら、どうでしょうか?
念願叶ってお付き合いできる!となった瞬間には、「嬉しい!やったーー!しんどかったけれど実践してきてよかったーー!!」と報われた気持ちと喜びでいっぱいになると思いますが、お相手が好きになってくれたのは「テクニックを使って演じている私」です。
例えば、本当はスカートよりもパンツ派で、かわいいよりもクールなものが好きな人が「女の子らしくすることで彼の理想の女子」になったら、この先もずっと、彼に嫌われないようにと
自分らしさを封印して、偽りの自分のまま努力する日々
が待っています。
はじめのうちはそれでも楽しめるかもしれません。
けれどそれがずーーーっと続くとなると、息が詰まってしまいますよね。
本当はパンツにスニーカーで過ごしたいのに、好きでもないスカートにパンプスを買わなくちゃいけない…って楽しくも何ともありません。
少しずつ自分をさらけ出していく中で「そんな子だとは思ってなかった」なんて言われたりしたら、ガーン!!となりますし、嫌われたくない…!と、ボロが出ないようにより一層自分以外を演じなくてはいけなくなり、
楽しむよりも嫌われないようにすることに意識が集中して、疲弊ばっかりしちゃいます。
努力して、愛される私!に変身して、無理して頑張って、自分らしさから離れて行った自分に対して「やっぱり●●ちゃんは理想の彼女だよ♡」と褒められても…
嬉しい!愛されてる!って感じられるでしょうか?
本当の私ではないのに、努力して演じている「偽りの私なのに」って、むなしさや寂しさが湧いてくるのではないでしょうか?
好かれたい、嫌われたくない…が過ぎてしまい、偽りの自分を生きるようになってしまうと、それで認めてもらってもちっとも自分が満たされませんし、そこにあるものは
嫌われなくてよかった…という安堵感だけで、喜びを感じられません。
そしてこの安堵感を失うことが怖いので、またしても「嫌われないように」と自分を奮い立たせて無理をさせ、ビクビクして生きることになってしまいます。
嫌われないように無理し続けなければいけませんし、気を緩めることができないし、断れなくなって自分を犠牲にしてしまい、いつも自分ばかりがガマンを強いられることになってしまいます。
自分を失くしてしまい、人に好かれることばかりを意識して努力して、それで愛してもらっても
愛してもらっているのは「そのままの自分」ではないので虚しいし、愛され続けるためにこの先も努力する日々が待っている。
これじゃ、人生が楽しくないですよね。
生きている限り、みんな「好かれたい」という気持ちを持っていますから、その気持ち自体は悪者ではありません。
でも、それが暴走し「嫌われるのが怖くて自分の意見が言えない」「嫌われるのが怖くて、いい人を演じている」と気付いたら、ちょっとだけ立ち止まって考えてみて下さい。
嫌われるのは怖いけれど、無理し過ぎていないかな?
嫌われたくないが強過ぎて、私を押し込めて犠牲にしていないかな?
以前、「2:6:2の法則」というものをコラムで書きました。
職場で役に立てていない…そんな風に肩を落とすときに思い出して欲しい「2:6:2の法則」
これは人間関係にも当てはまると言われていて、いくら嫌われないようにと心を配っても、この世界には「どうしても合わない2割の存在」があるのだそうです。
100%の人に好かれるというのは、不可能だ!
ということを「知っておく」のも、自分が嫌われることへの過度な怖れを弱めてくれる力になってくれます。
それでも嫌われるのは怖いですよね。
そんな時にはギューッと自分を抱きしめながら、「嫌われるのは怖いよね、分かるよ。でも少しずつそれを緩めて行けるように、自分を大事にする方法を一緒に考えて行こうね。」と自分に優しい声掛けをしてあげてください。
今日は、嫌われたくない・好かれたいという思いが強くなり過ぎて、自分を蔑ろにしたり犠牲することで愛されても、心は満たされずしんどい状況が続いちゃうんだよ、ということを書かせてもらいました。
長くなってしまったので、自分を縛る「嫌われたくない」という思いを解いていくための方法は、また別の機会に書かせて頂こうと思います。